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法然 1133~1212
法然(ほうねん)の教えとは 「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも往生できる
1.まことの心をもって、
2.阿弥陀仏を深く信じ、
3.浄土に生まれたいと強く願う心で(三心)念仏すれば必ず仏は救ってくれる。
経典 無量寿経(むりょうじゅきょう)、観無量寿経、阿弥陀経
※ 上記の経典は「浄土三部経」と呼ばれている
本尊 阿弥陀如来立像 右側 観世音菩薩 左側 勢至菩薩
総本山 知恩院(京都)
日本仏教の一宗派で、平安末期、法然房源空が開いた浄土教系の宗派。無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部経を基本の経典とし、中国の善導に依りどころを置いて、難易二道、聖浄二門の対立を通して安元元年の春、もっぱら南無阿弥陀仏の名号を念仏すれば極楽浄土に往生できると説き、戒律や造寺造仏の不要を主張した。その著「選択本願念仏集」は立教開宗の書とされる。
開祖は法然。開宗は1198年(建久9)の「選択本願念仏集」成立時とされる。浄土専念宗。念仏宗。 法然の思想と行動 法然は、はじめ比叡山で修行して天台宗の教えなどをまなんでいたが、しだいに当時の仏教界のあり方に疑問をもつようになった。思索と修学をつづける中で、源信の「往生要集」や永観(ようかん)の「往生拾因」によって念仏に近づいた。そして1175年(安元元)、善導の「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」の中の「専修(せんじゅ)念仏こそ往生の正業(しょうごう)であり、それだけが弥陀(→阿弥陀仏)の本願にかなっている」という文によって、念仏往生の確信をえた。この時を開宗とする説もある。
法然は「浄土三部経」と世親の「浄土論」を根本聖典とした。ついで、道綽の聖道(しょうどう)門・浄土門という仏教の2分類にもとづき、自力持戒の賢者のみが往生できる聖道門を、末法の時代には不相応のものとして排除した。そして、末法の世に罪業にまみれてしか生きえない、愚鈍下智(ぐどんげち)の凡夫すべてがすくわれるのは、他力易行(いぎょう)の浄土門以外にはないと断定した。また、もろもろの雑行(ぞうぎょう)をすて、口称念仏のみを正定の業(しょうじょうのごう)とする立場をとった。このように単純化され、純粋化された念仏は、上下貴賤の別なく人々の間にひろがり、鎌倉新仏教の先駆となった。
初期教団への弾圧 法然の専修念仏教団が興隆するにつれ、ほかの宗派やそれにうごかされた朝廷からの弾圧はきびしくなった。まず、1186年(文治2)法然の所説を究明する目的で、諸宗の学識のある人々をあつめて大原談義がひらかれた。これはかえって法然に勝利をもたらし、浄土宗は事実上公認されたかたちとなった。しかし、これに反発した比叡山の衆徒は、1204年(元久元)天台座主(ざす)真性(しんしょう)に念仏停止(ちょうじ)をうったえた。法然は「七箇条制誡」を書いて、他宗派とあらそう意志のないことをしめしたが、翌年、奈良興福寺の貞慶(じょうけい)らは、「興福寺奏上」を朝廷に提出して、法然を非難した。07年(承元元)、ついに法然に土佐配流の命がだされ、教団は大打撃をうけた。
教えの伸長 法然没後、弟子の中から弁長の鎮西(ちんぜい)流、証空の西山流、隆寛の長楽寺流、長西の九品寺(くほんじ)流、幸西の一念義の5流派を生じた。弁長は、法然没後も高まる明恵の「摧邪輪(さいじゃりん)」などによる迫害にたえ、筑紫(つくし)で口称念仏をすすめ、その門弟然阿(ねんあ)は関東地方に教えをひろげた。
法然の門からは、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍もでた。また武将の熊谷直実、堂上家の九条兼実、東大寺の重源(ちょうげん)らも法然の門下である。
浄土宗の開祖。平安末期から鎌倉初期にかけて、専修(せんじゅ)念仏(→念仏)の新仏教運動をおこした。諱は源空、号は法然房、勅諡は円光大師・明照大師など。法然上人、黒谷上人、吉水上人などと尊称する。幼名は勢至丸(せいしまる)。のちに法然房源空(げんくう)と名のった。
専修念仏への道
美作(みまさか)国久米で押領使の漆間(うるま)時国の子として生まれた。9歳のとき父が非業の死をとげ、叔父の寺にあずけられた。13歳で比叡山にのぼり、北谷の源光、西谷の皇円に師事して天台教学をまなんだ。15歳で受戒し出家したが、権力争いに明けくれる叡山の生活に不満をもち、黒谷の慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)の庵に投じた。ここで25人の同志が毎月15日にあつまり、不断念仏を修する二十五三昧会(ざんまいえ)にくわわり、源信の「往生要集」をまなんだ法然は、この書にみちびかれて浄土教を大成した唐の善導の思想にであった。善導の「観経疏(かんぎょうしょ)」をよみ、凡夫が救済される道は専修念仏であることを確信すると、たちどころにほかの修行をすべてすてて念仏に帰した。この生涯の転機となった1175年(安元元)を、浄土宗では「回心(えしん)の年」とよび、開宗の年としている。
叡空に別れをつげた法然は、西山広谷の遊蓮房円照との念仏三昧の生活をおくったのち、東山吉水に住房をうつし、聖の世界に身を投じて専修念仏の布教を開始した。1186年(文治2)天台の学匠顕真の招きをうけ、専修念仏の教えについて対論をおこなった法然は、念仏往生に疑問をもつ学僧たちを相手に、念仏こそ末法の世にふさわしい行であると力説し、この論争に事実上の勝利をおさめた。これを大原談義(大原問答)とよぶ。以後、証空や弁長、親鸞など多くの弟子があつまり、後白河法皇や関白九条兼実の帰依(きえ)もえて、専修念仏はひろく僧俗に浸透した。
巨大な新興仏教勢力として既成教団をおびやかしたため、延暦寺や興福寺から専修念仏停止の訴えがだされ、1207年(建永2)ついに法然は讃岐(さぬき)流罪となった。11年(建暦元)、ゆるされて京都にかえったが、翌年東山大谷で80歳の生涯をとじた。
思想と業績 法然は、1198年(建久9)にあらわした立宗の書「選択(せんちゃく)本願念仏集」の中で、念仏こそ、造像起塔や持戒持律が不可能な圧倒的多数の民衆を往生にみちびく唯一絶対の行だ、と主張している。そのため、布教の対象はあらゆる階層の老若男女におよび、念仏往生には善悪や身分の違いなど一切の条件はない、とした。法然の著作にはほかに「往生要集釈」「無量寿経釈」や、死の2日前に弟子の源智(げんち)に書きあたえた「一枚起請文」などがある。
参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.