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「本不生」と「不生位」と「阿字本不生」

「本不生」と「不生位」と「阿字本不生」

真言宗の僧侶の位牌において、位号のところに書くのが、「本不生ほんぶしょう」とか「不生位ふしょうい」という言葉です。
一言でいえば、さとりの世界を象徴した位号です。
真言密教の根本理念に「阿字本不生」という概念があり、「阿字より出でて阿字に還る」といわれます。
およそ世の中のあらゆる生きとし生けるもの、あるいはさまざまなものごとというものは、すべて縁が集まって生まれきたったものです。
縁によって生じたものであるから、もとよりはじめがあり、本源の大元であるわけです。
しかし存在の根本のあり方についていえば、本来無自他、執らわれのない、実体のないものであります。
つまり不生、本不生といわれる姿で、それがさとりの境地というものでしょう。
阿字とは、いのちの根源、ものごとの原点であり、その無量無辺にしてはかり知れないありようは、まさに真空妙有です。
いのちがよってきたるべき根源の阿字が不生にして不滅であることは、死もまた不生にして不滅ということです。
死ぬということは、とりもなおさず永遠なるさとりの世界に入ることであり、静かにしてやすらかな境涯に帰ることであります。

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「阿字」と呼ばれる、人間の知性と理解を遙かに超えた仏の「本不生」(本来不生の略語で本来何かから生まれたものではないという意味を持つ)
の特質を持った、あらゆる仏の本性をあらわす梵字を掲げ、各々の仏像を優雅に表現できるようにしています。


慈氏とはマトレーヤの訳語で、慈悲ぶかき者の意。

弥勒菩薩に同じ。密号の迅疾とは法輪を転じることの迅速なることをいい、纔発心転法輪(発心するや否や悟りを得て法を弘める)菩薩とも称す。

種字のアは通常は本不生(縁起・空の意)を意味する。

生とは生老病死を指し、輪廻の法を意味している。

すなわち、不生とは輪廻の世界を越えて涅槃=大慈に到達していることを表す。

弥勒は釈尊に継いで未来に成仏する菩薩で、現在は兜率天を住まいとしている。

その弥勒の浄土に死後上生したいという信仰が盛んである。
 

五鈷鈴は鈷鈴の一であり、五智とは金剛界の大日如来がその身に持っている智徳のすべてでありますが、四方にある四仏に四智を配当してあります。(資道什物記)

修験道では我々自身が阿字、即ち自身が本来不生のものと云う根源を悟ることにより、即身成仏できると考えるので、阿字不生の宝鈴をえりに懸け・・と観念するのです。

阿字不生は阿字本不生と同じで密教の根本義とされます。

不生とは元々あったもので後から造られ出来たのでないということで、阿は言葉の最初であり、一切諸法の根源であり、それを人格的に表すと大日となり、その機能が図示されたものが曼荼羅です。

修験道では我々が阿字、即ち自身が本来不生のものと云う根源を悟ることにより即身成仏できると考えます。

第七  覚心不生心 
  物質に実体性がない(無我)だけではなく、自分の心に起こることも、実体がなく、本来不生であると悟る。三論宗の境地。

 「心に映るものは本来生じたり滅したりせず、心は本来静かに澄みわたっている。」

 この時、心主(心の主体)は自由自在になり、物の有る無しに迷うこともなく、自利・利他の行為を心のままに成すことができる。

この絶対の自由の状態を心王という。

 それを悟れば、「遂にとうとう、阿字門(万有一切の本源を不生阿字で象徴する部門)にはいったのである」と大師は説かれる。

本来生起しないとは、「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」の八つの不の意味である。

寂滅平等の真実の智恵に住して失うことがない。