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中国の禅宗 日本の禅宗

人の心も仏の心も元は一つ(仏性)なのだから、仏を外に求めるのではなく、 自分のなかに悟りを求める」、つまり「仏性に目覚めればおのずと仏になる」 仏教の本質を追求する宗派です。 この悟りに至る修行の方法が、臨済宗と曹洞宗では少し違います。

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禅宗(ぜんしゅう)

大乗仏教の1宗派で、禅(具体的には座禅)によって精神的安定をえて悟りにいたることを目的とする。不立文字(ふりゅうもんじ)を原則とするので、他宗のように中心的経典はたてない。また、悟りの機微は師から弟子にうけつがれるとする師資相承、師の心を弟子につたえるとする以心伝心、文字に書いた教えだけでなく全人格的な教えが必要だとする教外(きょうげ)別伝など、種々の特徴をもつ宗派である。元来、禅は仏教の基本的実践の重要な徳目であるから、古くからインドで重視されていたが、宗派として確立したのは中国においてである。ただし、禅宗という語がもちいられるのは唐代末期であり、そのころから、禅宗の歴史の起源をどこにもとめるかが問題になってきた。そして初祖と考えられたのが達磨である。

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中国の禅宗

達磨は北魏のころ、インドから中国へきて、「二入四行(ににゅうしぎょう)」という独特の禅法を説いたという。この教えは、弟子の第2祖慧可、3祖僧(そうさん)、4祖道信、5祖弘忍とうけつがれ、禅宗教団は大勢の門下をかかえる大教団へと発展した。弘忍のあとは、神秀と慧能という2人のすぐれた弟子がつぎ、神秀は北宗禅を、慧能は南宗禅をひらいたが、南宗禅が正統とみとめられ、慧能が6祖となった。
慧能ののち禅宗は、臨済宗、仰(いぎょう)宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗の五家が分立し、これに臨済系の分派である黄竜派と楊岐(ようぎ)派をくわえた五家七宗が中国禅宗のおもな分派となった。ついで馬祖道一(ばそどういつ)や、そのあとをついだ百丈懐海(ひゃくじょうえかい)が禅宗の独立を確実なものにし、禅宗は唐代から五代をへて宋代にさかえて、中国仏教の主流をなすにいたった。
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日本の禅宗

日本につたえられた禅は、すべて五家七宗に分派した後の宋朝禅だった。禅宗を日本に最初につたえたのは栄西である。栄西は鎌倉初期に入宋して臨済宗黄竜派の禅をつたえ、鎌倉幕府の帰依(きえ)をうけて京都に建仁寺をひらいた。栄西の禅は他仏教もとりいれた兼修禅の面が強く、この流れからは円爾(えんに)や覚心がでた。その後つづいて、蘭渓道隆や無学祖元、一山一寧など、宋から来朝する禅僧があいついで正統の南宗禅をつたえた。

鎌倉時代のもうひとりの代表的な禅僧、道元も、入宋して曹洞宗を日本につたえ、京都で正法禅を説いたが、比叡山の迫害により、越前に永平寺をひらいて弟子を教育した。道元の禅は「只管打座」(しかんたざ:ひたすら座禅すること)の純風で、その哲学的思索の深さは「正法眼蔵」によってしめされた。曹洞宗は、懐奘(えじょう)や義介(ぎかい)、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)など多くのすぐれた弟子がでて、全国的にひろまった。
室町時代にはいると、臨済宗は京都や鎌倉を中心としてさかえ、夢窓疎石(むそうそせき)や宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)といった弟子をだし、その後、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、義堂周信、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)をはじめとする五山文学で活躍した名僧を輩出した。また、禅宗の寺格をさだめた五山十刹(じっせつ)の制度も、義堂の意見にしたがって足利義満がととのえた(→五山)。
江戸時代には、明から来日した隠元が宇治に万福寺をひらいて明朝風の禅をつたえ、黄檗宗をおこした。その近世中国の学問や文化をつたえる宗風は、日本の仏教界や文化に大きな影響をあたえた。臨済宗からは沢庵や白隠が、曹洞宗からは鈴木正三や良寛がでた。明治以後、日本の禅宗は鈴木大拙らの活躍で海外でも知られるようになった。
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五山(ござん)

禅宗の臨済宗で最高の寺格をしめす代表的寺院の呼称で、インドの五精舎にならって、中国・日本でもうけられた。
中国では南宋の末期に設立され、杭州の臨安府を中心に、(1)径山興聖(きんざんこうしょう)万寿寺、(2)北山景徳霊隠(けいとくりんにん)寺、(3)太白(たいはく)山天童景徳寺、(4)南山浄慈(じんず)報恩光孝寺、(5)阿育王山広利寺、の五山がそれとされた。

日本では、鎌倉から室町時代にかけて鎌倉や京都で五山がきめられていった。いくたびか選定の変更をくりかえしたのち、1386年(元中3・至徳3)最終的に京都・鎌倉の五山の制度がさだめられた。京都五山は、別格とされる南禅寺をはじめとして、(1)天竜寺、(2)相国(しょうこく)寺、(3)建仁寺、(4)東福寺、(5)万寿寺であったが、万寿寺は衰亡後復興しなかったため、有名無実となった。鎌倉五山は、(1)建長寺、(2)円覚寺、(3)寿福寺、(4)浄智寺、(5)浄妙寺の五寺であった。いずれも室町幕府の保護の色彩のこい寺院であった。

五山につぐ地位にある十刹(じっせつ)や、そのほか、官寺の住持となる資格をもつ禅宗各派は五山派または五山叢林(そうりん)と総称され、五山文学とよばれる漢詩文を中心とする文学を大成させたことでも知られる。一山一寧(いっさんいちねい)をはじめとして、虎関師錬、義堂周信(ぎどうしゅうしん)、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)など、文人としてもすぐれた多くの禅僧がでた。彼らは四六駢儷(べんれい)体をもちいて、仏教的内容から俗なものまで、中国禅文学の流れをうけた多くの作品をのこした。また、五山文学は藤原惺窩や林羅山に代表される近世儒学の母胎ともなった。

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禅(ぜん)

仏教の修行のひとつで、瞑想して心身を統一し、無我無心の境地に到達するための修行法。サンスクリットのディヤーナ、パーリ語のジャーナの音写語で、古くは「禅那(ぜんな)」としるされたが、略して「禅」となった。「静慮(じょうりょ)」「思惟修(しゆいしゅ)」「定(じょう)」などと漢訳されることもある。また、漢字の「禅」には天子が神をまつる祭り「封禅」の意味があって、仏教の翻訳語としてのみならず、深い宗教性があったものと考えられる。また、戒・定・慧(え)のひとつである定とあわせて「禅定」ともいわれ、仏道修行者がおさめるべき3つの基本的修業である三学のひとつ、大乗仏教の説く実践徳目である六波羅蜜の第五にあたる。

禅は古代インドにおいては一般的な宗教的修行の方法であった。当時インドでひろくおこなわれていたヨーガの実践過程のうちの精神浄化法の1段階であったものが、釈迦によって仏教の中にとりいれられて、主体的精神的傾向を強めたものである。原始仏教においては禅を精密に分析して、欲をもつ世界から欲をはなれる世界まで、4段階に区別した。その最高の段階を「非想非非想処」といい、これをおさめることができるものは最高の天「有頂天(うちょうてん)」に生まれることができるとされた。

大乗仏教では、六波羅蜜の第五に位置するように、段階的実践を内的に統一する、禅の本来的な意味にたちかえってくる。具体的には禅定によってえた智慧で利他の行をすることである。中国や日本の禅宗はこのような大乗の禅によって成立したもので、たんに心の平静をたもつだけでなく、それはつねに悟りをふくんだものでなければならぬとされる。唐代の宗密は禅が悟りをふくんでいるか否かによって、外道禅・凡夫禅・小乗禅・大乗禅・如来禅の5種に分類した。また、禅はなによりも禅にこだわり、禅にしばられることをきらうので、「無為にして為さざるは無し」という「老子」の立場も大切にした。

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座禅(ざぜん)

仏教の修行法のひとつで、静座して精神の集中をはかり、迷いの心をすてて無念無想の境地に達すること。禅宗では、衣食住から労働にわたる日常生活の実践の中に悟りをひらく道があるとし、行住座臥(ぎょうじゅうざが:あるくこと、とまること、すわること、横になること)にそれぞれ禅の修行があるとするが、なかでも座禅がもっとも代表的な修行法として注目され、息のととのえ方や姿勢が重視される。

座禅の足の組み方はいろいろあるが、結跏跌座(けっかふざ)が基本的である。これは左右の足首を反対側の足のももの上にのせ、かかとが下腹につくくらい手前にひきよせて両足をくむ。手は法界定印(ほうかいじょういん)といって、右のてのひらの上に左のてのひらを上にむけてかさね、左右の親指を軽くあわせて輪をつくり、へその下あたりにおく。下腹をすこし前に、尻を後ろにつきだし、鼻とへそを垂直におく心持ちで背筋をのばす。ただし肩の力はぬき、目は半眼にして1mほど前方におとす。呼吸は腹式呼吸で、できるだけゆっくりと、しずかに息をはき、短くすいながら息をととのえる。
座禅の根源は古代インドのヨーガの神秘的な実修にもとづく。このうちの瞑想法がバラモン教(→ヒンドゥー教)やジャイナ教にもとりいれられ、仏教もこれを修行法にとりいれた。小乗仏教ではヨーガをおこなう行者たちを瑜伽行派とよんでいた。大乗仏教も菩薩がおさめる修行法にむすびつけ、六波羅蜜のひとつにあげている。インドから出土する仏像は、座禅と同じような結跏跌座の姿勢をしている(ただし左右の手や足の組み方は現在の座禅とは逆。これは中国の禅宗以後の変化である)。

ところが、中国で独自に発達した禅宗、およびその影響下で発展した日本の禅宗では、座禅の意味はまったくちがってくる。すなわち禅宗では、座禅は三学や六波羅蜜のひとつではなく、その全体を統合した意味内容であるとされた。つまり、座禅はたんに心の統一をめざしただけのものではなく、座禅そのもののうちに悟りの知恵がふくまれているとされた。そのため座禅は、もっとも代表的な禅の修行法と一般にみなされるようになった。

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達磨(だるま)

生没年不祥 禅宗の開祖で、サンスクリット名はボーディダルマといい、正式には菩提(ぼだい)達磨と音写される。インド生まれで、6世紀に海路中国にわたり、そこで活躍した。梁(りょう)の武帝にまねかれて禅を説いたこともあったが、中国にまだ禅をうけいれる素地のないことを知り、嵩山(すうざん)の少林寺に隠棲(いんせい)した。ここで壁にむかって座禅をおこなう独自の修行法(壁観)にはいり、「面壁九年」の伝説を生んだ。ほかにも、2祖の慧可は面壁中の達磨に対して、自分の腕を切りおとして入門の意志の固さをしめしたとする「慧可断臂(だんぴ)」の伝説をはじめとして、他派の学徒に毒殺されたとするものや、日本にわたって聖徳太子と問答したなど多くの伝説を生んでいる。

達磨の思想は「楞伽経」をもとに、複雑な教学体系に没頭するのではなく、ただ本来仏性をそなえた自己を発見することによって成仏せよと説くものであったといわれている。
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慧可(えか)

慧可 えか
487~593 中国、南北朝時代の禅僧。達磨を初祖とする中国禅宗の第2祖。河南省洛陽付近の出身。わかくして出家し、学問修行につとめたが、520年に達磨の弟子となり、6年間修行して、その禅法をついだ。第3祖僧粲(そうさん)に法をつたえ、中国各地をめぐって禅風をひろめたが、迫害をうけて処刑されたといわれている。達磨に入門するとき、その決意をしめすために左の腕を切断した慧可断臂(だんぴ)の伝説は有名で、しばしば画題にされる。
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慧能(えのう)

638~713 中国禅宗の第6祖。六祖大師ともいう。諡(おくりな)は大鑑禅師。俗姓は盧(ろ)氏。はやくに父をうしない、赤貧のうちにくらし、市にでて、薪を売って母をやしなった。20歳すぎ、人が「金剛経」(→般若経)をとなえるのをきき仏道にこころざし、五祖弘忍(ぐにん)に師事した。学識がなかったため、米つきの作業を8カ月間もやっていた。そのころ、弘忍はみずからの禅をゆずる人をきめるために、弟子たちに偈(げ:悟りをしめす詩)をつくらせた。
随一の高弟であった神秀(じんしゅう)は「身は菩提樹(ぼだいじゅ)、心は鏡、常に清浄にして、塵(ちり)をつけてはならない」と修行の段階をへて悟りにいたる漸悟(ぜんご)の境地をしめした。これに対し慧能は「菩提はもとより樹でなく、鏡もまた鏡でない。本来、無一物であるのに、どこに塵がつくところがあろう」と修行の段階をふまずにさとる頓悟(とんご)の境地をしめした。結局慧能がえらばれ、彼は第6祖となった。
神秀は則天武后などに信任され、北宗禅の祖となったが、慧能は南海にかえり、世間にかくれてすんだ。弘忍が死んだ翌年、39歳で広州の法性寺にはいり、印宗について髪をそり、智光律師によって具足戒をさずけられた。その後、民間にあって説法し、多くの信仰をあつめた。

彼の禅は、神秀の北宗禅に対し、南宗禅とよばれ、臨済宗や曹洞宗など五家七宗とよばれる禅はみなここからでている。荷沢神会(かたくじんね)、南岳懐譲(なんがくえじょう)などすぐれた弟子をだした。慧能の波乱万丈の生涯は「六祖壇経」にしるされている。

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沢庵(たくあん)

沢庵 たくあん
1573~1645 江戸前期の臨済宗の僧。沢庵は道号で、諱(いみな)は宗彭(そうほう)。但馬(たじま)の人。幼少のころ出家し、大徳寺派の諸師について修行したのち、1609年(慶長14)大徳寺住持となったが、わずか3日で堺の南宗寺にうつった。29年(寛永6)、紫衣(しえ)事件で大徳寺が弾圧されたことを幕府に抗議したため、出羽の上山(かみのやま)にながされた。しかし、32年にゆるされて江戸にかえったのちは、徳川家光の帰依(きえ)をうけ、39年品川に東海寺をひらいた。柳生宗矩(むねのり)におくった著書「不動智神妙録」は剣と禅の一致を説いたものとして有名である。また、漬物の「沢庵」の創始者ともいわれる。
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良寛(りょうかん)

良寛 りょうかん
1758~1831 江戸中・後期の歌人・漢詩人・禅僧・書家。高潔な人格が人々から愛されたが、奇行も多く、庵(いおり)の下にはえてきた竹の子のために床に穴をあけてやったという逸話などがつたえられている。

越後(現新潟県)の出雲崎生まれ。幼名は山本栄蔵、のち文孝とあらためる。1775年(安永4)に剃髪し、79年から11年間、備中国(現岡山県)の国仙和尚のもとで修行した。各地を行脚(あんぎゃ)したのち越後にかえり、1804年ごろから国上寺(こくじょうじ)に近い五合庵に定住した。子供たちとしたしくあそんだという逸話がのこされ、「霞立つ長き春日を子供らと手まりつきつつ今日もくらしつ」などの歌をよんでいる。晩年、三島(さんとう)郡島崎にうつり、愛弟子貞心尼にみとられて没した。

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参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.