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日蓮 1222~1282

日蓮 1222~1282

日蓮(にちれん)の教えとは、「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えれば成仏できる
お題目を唱えることによって、仏の境地に入ることができ、
それによって釈尊の徳を譲り受け、成仏できると説いた。

経典   法華経(妙法蓮華経)

本尊   釈迦如来 十界曼荼羅(じっかいまんだら)または三方尊(向かって
     右から、多宝如来、「南無妙法蓮華経」のお題目、釈迦牟尼仏)
     その前には、宗祖、日蓮上人をまつります
     さらに両脇に鬼子母神(右)と大黒天(左)をまつることもあります。

日蓮宗の掛軸 中央 十界曼荼羅
       右側 鬼子母神
       左側 大黒天

 

  日蓮宗(にちれんしゅう)

日蓮を開祖とする日本仏教の宗派のひとつ。古くは法華(ほっけ)宗といったが、天台法華宗と区別するため、日蓮法華宗、仏立(ぶつりゅう)宗などとも称した。1253年(建長5)4月28日、安房(あわ)国清澄山頂で、日蓮が太陽にむかって「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の題目を高唱したときを開宗の日とする。

日蓮宗の教義

日蓮宗は「法華経」を最高の経典とした。それも鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」をよりどころとし、この経典の後半部(本門)で説かれている久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦仏、すなわち歴史上の釈迦ではなく、はるかな昔にすでに成仏をとげた本性としての釈迦仏の存在を強調した。そして、この仏に帰依(きえ)して「南無妙法蓮華経」ととなえて善行をつむことが救いとなるとし、その積極的な実践を奨励した。また、個人の救済だけでなく、社会や国家全体の救済を主張したところにも特徴がある。
こうした教えを実行にうつすために日蓮宗では、5つの項目をたてて末法の世における日蓮宗の必然性を説いた。

すなわち、日蓮宗の信仰の拠点である本門法華経の教え(教)は、仏教的素地のない人々(機)に、適応すべく(時)、日本(国)の歴史的要請(序)に応じたものであるとし、これを五綱(こう)とよんだ。

そのうえで実践すべき3つの教えである、本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇という三大秘法を説いた。

「本門の本尊」とは久遠実成の釈迦仏のことであり、
「題目」とは「南無妙法蓮華経」のことであり、
「戒壇」とは題目をとなえて仏と一になるために修行する場のことである。

つまり三大秘法は、本尊たる釈迦仏に帰依し、「南無妙法蓮華経」をとなえて修行することを説いたものである。 五綱は日蓮が自らのうけた数々の苦難をとおして考えだされたものである。これにより彼は、自分が本門法華経の教えをひろめるための師としてえらばれたとの自覚に達し、三大秘法を明らかにした。

教団の展開

晩年の日蓮には、法統をつぐべき、日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の6人の本弟子(六老僧)らがあり、関東地方を中心とした基盤をもっていた。また、中老僧とよばれる多くの弟子もあった。日蓮の死後、弟子たちは各自の有縁の地への布教にはげみ、教勢は順調に拡大した。
しかし、1288年(正応元)日蓮の七回忌を機に、これまで弟子たちが交替でまもってきた日蓮の墓がある身延(みのぶ)山を日向が専門にまもることとなったため、これを不満とした日興が駿河に大石(だいせき)寺と本門寺をたてたことにより分派がはじまった。1294年(永仁2)には日朗の弟子日像が京都で布教をはじめ、妙顕寺をたててから、京都を中心に教勢はのび、洛中に21本山ができた。そのほか、関東では鎌倉の妙本寺、池上の本門寺、中山の法華経寺、身延山の久遠寺などを中心として、16世紀半ばまでは分派発展の時代がつづいた。
日蓮宗系の僧や信徒は反体制的な思想をもっていたため、権力側からの弾圧もしばしばおこり、室町時代には妙満寺の日仁、日実、中山法華経寺門流の日親などがとらえられて拷問をうけるなどした。近世初頭には、豊臣秀吉の宗教政策をめぐって、日奥が日蓮宗の僧は他宗の信者の布施供養をうけず、また信者は他宗の僧に供養してはならないとする不受不施(ふじゅふせ)を主張したため、異端邪説として排撃された。しかし不受不施を主張するものは跡をたたず、江戸時代にはいって日樹や日講がこれを主張し、幕府の弾圧をうけた。 現在の宗派 身延山久遠寺を総本山とする最大の日蓮宗のほかに、大石寺の日蓮正宗、本門宗、法華宗、本門法華宗、本妙法華宗、日蓮宗不受不施派、本門仏立宗などがある。なお、日蓮宗系に特徴的なことは、立正佼成会、霊友会、創価学会などの新宗教の信者団体が多く存在することである。

 

日蓮(にちれん) 1222~1282 

鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。日蓮宗の開祖。安房国(千葉県)東条郷に漁師の子として生まれたとつたえられる。12歳で清澄(せいちょう)寺にあずけられ、16歳で出家した。翌年から鎌倉、比叡(ひえい)山を中心に14年間遊学した。1253年(建長5)、32歳で故郷にかえり、同年4月28日清澄山頂で、のぼりくる太陽にむかって「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の題目を高唱した。この日をもって日蓮宗開宗の日とされる。このころ法名を日蓮とあらためた。遊学中から日蓮は「法華経」至上の立場をとっており、盛んだった法然の浄土念仏思想に批判をくわえた。そのため故郷をおわれ、鎌倉にのがれた。

鎌倉で、日蓮は大地震や飢饉、疫病などがあいつぐ中、天変地異の源は浄土教のひろまりにあると考え、1260年(文応元)にあらわした「立正安国論」では、浄土教を禁止して法華経を信じなければ、内乱と侵略がおこるだろうと主張した。前執権北条時頼(ときより)はこの進言をききいれなかった。日蓮の主張はさらにはげしくなり、「法華経」以外の諸経・諸宗を否定した「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇(しか)格言をもって辻説法もおこなった。日蓮は浄土教徒らの襲撃をうけ、61年(弘長元)に鎌倉幕府によってとらえられて、伊豆の伊東にながされた。

2年後の1263年にはゆるされて、ふたたび鎌倉にいき国難をうったえた。元との緊張が高まり、「立正安国論」で予言した侵略が現実味をおびてくると、日蓮への信奉者も増加したが、彼は極刑を覚悟のうえで積極的な説法をつづけたため、71年(文永8)にまたとらえられ、首を切られる寸前に奇跡的にまぬがれて佐渡へながされた。佐渡での3年間の流人生活で、飢えと寒さにくるしむ中で「開目抄」や「観心本尊抄」など彼の代表作をあらわした。この苦難の中で、日蓮は、人間そのものが悪と苦の存在である以上、苦難をうけるのは当然であり、この苦難によってこそ自己の罪は消滅するのだと考えた。そして「法華経」の題目をとなえることで、現世における救済が可能になると説いた。

1274年、モンゴル襲来の直前にゆるされて鎌倉にもどると幕府から対策の相談をうけたが、結局、日蓮の意見はうけいれられず、甲斐(かい)国の身延(みのぶ)山に隠棲(いんせい)した。そこで「報恩抄」をあらわし、弟子の指導にあたったが、信徒に対する弾圧はなおきびしかった。82年(弘安5)日蓮は病をえて、常陸(ひたち)に湯治にいく途中、武蔵(むさし)国池上において、後事を六老僧(日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持)に託して61歳で没した。

思想

日蓮は厭世観があふれていた鎌倉時代にあって、釈迦仏の存在を信じ、現世における仏による救済の国の建設をめざした。また、禅や念仏が個人の宗教的経験を大切にするのに対し、彼は国家規模での救済を考えていた。このような現世重視の思想は鎌倉末期からの教団の拡大をもたらし、京都の町衆や、のちには江戸の町人から圧倒的支持をうけることになった。また、近代以後の新宗教運動に日蓮の影響が強いのも、その現実重視の思想のためと考えられる。

    参照 (Microsoft(R) Encarta(R) 97 Encyclopedia.